【三味線の歴史】
筆者:木村伶香能
日本における三味線の起源は、中国の明時代に、大三味線が沖縄へ伝えられた事に始まります。やがて、大三味線は沖縄で改良され、より小型な三線が生まれました。この三線は、室町時代の永禄年間に、沖縄から大阪の堺へもたらされました。当初は琵琶法師によって演奏されていましたが、次第に改良され、江戸時代初期には現在の形になりました。(*三味線黎明期については諸説あります。)
江戸時代(1608 – 1868)は三味線音楽が最も花開いた時代です。江戸時代初期には、三味線は物語を“語る”浄瑠璃の伴奏楽器として用いられました。また三味線弾き唄いによる三味線組歌とよばれる歌曲が作られました。江戸中期には、三味線音楽の代表的な長唄、また地歌といった今日でも広く愛されているジャンルが確立されました。また、大阪では17世紀後半に、竹本義太夫によって義太夫節が創始され、人形浄瑠璃と共に演奏されました。その他、一中節、河東節、荻江節、宮園節、清元節、常磐津節、新内節、端唄など、多種多様なジャンルが生まれ、今日まで演奏されています。
これらを大別すると「劇場音楽」、「室内音楽」(山田流箏曲はここに含まれます。尚、「箏曲」という言葉には箏曲で演奏される三絃も含まれます。)、「民俗芸能」に分類されます。三味線音楽はこのように細分化しながらも、互いの様式に影響を与え合い、「うた」や「語り」を支える伴奏楽器としての魅力と、技巧を駆使する器楽的な魅力を合わせ持っています。
【楽器】
三味線の本体は、皮の張ってある胴と、棹と呼ばれるネックの部分で成り立っています。この胴と棹のわずかな大きさの差異により、3種類の三味線(細棹・中棹・太棹)があります。いずれも本体に、3本の絃をかけ、胴に駒を置き、胴に絃の振動を伝えることより音が発生します。演奏する時は、撥を用いて、絃を弾奏しますが、同時に叩くことによって、三味線特有の音色が生まれます。駒や撥は、それぞれのジャンルが求める音色に相応しい素材(象牙、鼈甲など)が使用されており、多種多様です。絃は主に絹製が使用されていますが、耐久性のあるテトロン絃やナイロン絃も使用されています。
【さわり】
三味線の最も特徴的な音色は、「さわり」と呼ばれる倍音成分です。一種の雑音成分とも言えますが、三味線音楽においては「騒々しい音」ではなく、残響効果が高められた、「三味線の命」とも言える音色です。またこの倍音を出すための構造そのものの名称(さわり山、さわり溝)でもあります。「さわり」は、三味線の棹上部にある、「さわり山」に Ⅰ の絃がわずかに抵触することによって、「ビーン」とした倍音が生じ、またその響きが Ⅱ、Ⅲ の絃にも伝わり、楽器全体が豊かに響くように工夫されています。また、より確実に「さわり」を付けるために「吾妻さわり」という装置を埋め込む事もあります。この「さわり」のアイデアは、アジア諸国の楽器にも見られる工夫で、具体的な一例としてインドのシタールが挙げられます。