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【箏歌に寄せて】

                            筆者:木村伶香能

ここでは、箏歌についての個人的な想いを解説も含めて綴りたいと思います。歌を伴う古典作品を演奏しますと、日本国内、あるいは海外を問わず「お箏には、歌があるのですね!」という驚きを含んだ反応を頂く事が多々あります。三味線は、代表的なジャンルである長唄に、「唄」という言葉が付いている事からも、歌を伴奏する楽器でもあるという事が想像しやすく、また広く認知されていますが、一般的には「お箏=“黙々と”美しい音を奏でる楽器」というイメージが湧くのかもしれません。箏曲の長い歴史の中で、古典から現代の作品まで、膨大なレパートリーが生まれました。実は、それらの大半を占める古典作品のほとんどは、歌を基調としています。

箏曲の歌は、文字通り、箏歌(ことうた)と呼ばれます。箏歌は、丹田と呼ばれる下腹部で、上体を支えながら、自然な声音(地声)で発声されます。旋律は、基本的に母音を延ばしたメリスマティックな動きを伴うのが特徴的です。歌詞は、源氏物語、平家物語など古典文学に典拠した詩文、または古今和歌集、新古今和歌集などの詩歌がそのまま用いられています。これらの歌詞を通して、四季折々の雅趣や人間の普遍的な心情、有名な故事逸話、寺社仏閣への道行など、多彩な世界が表現されています。山田流箏曲に視点を絞りますと、流祖の山田検校は、能楽や、当時江戸で流行していた浄瑠璃音楽を、巧みに箏曲に取り込み、自身の美声を活かして、「弾き歌い」の箏曲を確立しました。その為、能楽や浄瑠璃の影響を受けた「語り」の要素も随所に散りばめられ、音楽のドラマ性や立体感を一層高めています。

古文で書かれた歌詞は、現代においては生粋の日本人であっても、一朝一夕では味わいきれない含蓄があります。奥行きの深い詩歌の世界を表現するには、一生学びの連続であることを常々感じています。また海外の演奏活動においては、「異国語であり、しかも古文」という言葉の壁も二重に生じる為、歌を伴う作品が敬遠されてしまう傾向も少なからずあるように思われます。その一方、「壁」を乗り越えて、新鮮な反応を頂くことも多々あります。私が海外で本格的に演奏活動を始めた時、是非継続しようと思ったことの一つが、「箏歌を歌い続けること」でした。多くの作曲家の方々と器楽の新しい可能性を発見しながら、新しい作品を創る活動は、私にとって大きな喜びであり楽しみですが、同時に箏歌は自分自身のルーツだと感じています。「弾く」と「歌う」はコインの裏表のようになくてはならないものです。アメリカの地方都市で演奏した時、ある女性が終演後に「全然言葉の意味は分からないけど、この楽器のルーツが伝わってきて涙が出て仕方なかった。」という感想を述べて下さいました。その後も折々、有り難い事に、この様な反応を頂き、大きな励ましを頂いています。私は洋の東西を問わず、歌が好きなのですが、ニューヨークではオペラもよく聴きに行きます。オペラ公演では、必ずサブタイトル(字幕)が用意されており、イタリア語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語など、様々な言語による作品を楽しむ事ができます。箏歌の世界は、オペラの様な眩い演出も伴わない、極めてシンプルなものですが、そのドラマ性や音楽性はオペラにも匹敵するものと信じています。「なんだかわからないけど、そこはかとなくいい」ーそこから人の想像力は始まります。世界の方々に楽しんで頂ける箏歌を演奏出来るよう精進していければ、と心から願っています。